アレンスキーの生涯

【幼年時代】
 1861年6月30日(新暦の7月12日)、アントン・ステパノヴィチ・アレンスキーはロシアの古都ノヴゴロドで産声を挙げた。父親ステパン・マトヴェエヴィチは医者であり、教養豊かで人に優しく、地元の名士であった。また、自らチェロやヴァイオリン、オルガンも演奏し、音楽サークルに出入りするほどの音楽好きであったという。母親のナデジダ・アンチポヴナもかなりの腕前のピアニストであり、このような両親に育てられた子どもたちはみな小さな頃から音楽に親しんだ。
 アントンは7歳の頃、母親からピアノの手ほどきを受け始めるが、その後アントンに才能があることが分かった両親は、アントンをペテルブルクの音楽学校に送ることにする。ペテルブルクでアントン少年は古典ギムナジウムに通いながら、音楽学校にも通い、そこでリムスキー=コルサコフの弟子カルル・カルロヴィチ・ズィッケに師事。そのズィッケによりアントン少年は音楽の理論的な基礎をしっかりと叩き込まれた。

【ペテルブルク音楽院時代】
 ギムナジウムを卒業すると、1879年にペテルブルク音楽院の特別理論クラスに入学。そこでの指導教授はリムスキー=コルサコフ(作曲理論とオーケストレーション)とイオガンセン(フーガと対位法)であった。熱しやすく冷めやすい性格だったアレンスキーは、授業にまじめに出席してコツコツと勉強するタイプではなかったが、しかし非常に才能豊かで、音楽院の中でひときわ目立つ存在であった。その才能豊かな弟子にリムスキー=コルサコフはかなり目をかけてやっていたという。1881年に自分のオペラ《雪娘》のピアノ編曲をまだ若いアレンスキーに任せていることからも、リムスキー=コルサコフがいかにこの若者の才能を信頼し、そして期待を寄せていたかが分かるだろう。
 1882年アレンスキーはペテルブルク音楽院を卒業する。卒業制作として作曲したのは独唱、合唱と管弦楽のためのバラード《森の王》と管弦楽のための《演奏会用序曲》であり、アレンスキーは最も優秀な卒業生に贈られる金メダルを獲得した。そして、この前途洋々たる若き作曲家はモスクワ音楽院で楽理を教えないかと誘いを受け、その年の秋に、馴染みのペテルブルクからモスクワへ移っていく。

【モスクワ時代】
 モスクワに移ったアレンスキーはほどなく同僚のタネーエフと知り合う。タネーエフはアレンスキーよりも6つほど年上。ニコライ・ルビンシテインにピアノを、チャイコフスキーに作曲を習い、チャイコフスキーの後継者的な存在である。このタネーエフとの関係はすぐに真の友情へと発展し、アレンスキーのモスクワ生活において最も重要な役割を果たしたと言っていい。いろいろな回想を見ると、その関係は、お天気屋でけっして勤勉とは言えないアレンスキーの面倒を、真面目で思いやりのあるタネーエフが親身になってみてやる、というものだったようである。
 もう一人、モスクワ時代のアレンスキーに大きな影響を与えた人物がいる。タネーエフの恩師でもあるピョートル・チャイコフスキーである。チャイコフスキーはアレンスキーの才能を評価し、先輩作曲家として貴重な助言を与えたのみならず、オペラや管弦楽曲、器楽曲などさまざまなアレンスキーの作品を宣伝するために労を惜しまなかった。

【モスクワ音楽院での教授活動】
 モスクワ時代のアレンスキーの活動においてとりわけ重要だったのは、モスクワ音楽院での教授活動である。アレンスキーは必修科目の中から「和声学」と当時「音楽百科事典」と呼ばれていた科目(いわゆるアナリーゼ)と、専門科目のうち「対位法」と「自由作曲」を受け持っていた。教師としてのアレンスキーの人気は年ごとに高まり、音楽院の理論担当教員の中でタネーエフに次ぐ地位につくようになったという。1889年には教授に昇任。アレンスキーのクラスの卒業生としては、ラフマニノフ、ゲオルギー・コニュス、コレシチェンコらがおり、授業を履修していた者の中にはスクリャービン、プレスマン、イグムノフ、ゴリデンヴェイゼル、グリエール、メトネルその他大勢の著名な音楽家が含まれている。
 弟子たちによる回想を見ると、「生まれ持った才能、直感的なひらめきによって生徒を感化し、間違いを瞬時に見抜き、生徒を正しい方へ導く天才的な芸術家」――これがアレンスキーの教育者としての姿だったようである。しかしそれは同時に、細かな技術を体系立てて手とり足とり教えたわけではないということでもある。そもそも、移り気で短気な性格であり、勤勉でもなく、天性の才能だけでうまくやってきたアレンスキーに、学生に初歩の理論を細かく丁寧に教えるということが向いているはずもない。例えば、弟子のゴリデンヴェイゼルは「アレンスキーには悪いところもありました。才能のない生徒に我慢がならず、生徒の課題の出来が悪いと、かなり辛辣に虐めるのです」と率直に述べている。このような教師であったから、アレンスキーはすべての学生とうまくいったわけではなかった。ラフマニノフはおそらく最大限の恩恵に浴した弟子であり、特に和声学に関してアレンスキーから得たものは大きかったが、それに対して、グレチャニノフやスクリャービンらはアレンスキーとうまくいかずに、不幸な別れ方をしている。

【結婚と病気】
 1884年にアレンスキーはモスクワ音楽院の声楽科の学生だったエリザヴェータ・ヴラジーミロヴナ・ラチノヴァと知り合い、1886年に結婚。翌87年には息子パーヴェル、89年には娘ナデジダが生まれた。
 1887年春、アレンスキーは短期間の精神錯乱に陥る。重い鬱症状を発症し、精神病院に入れられるが、7月には快復の兆しが見え、12月に復職。しかし、アレンスキーの精神状態はその後も不安定なことが多く、精神的に落ち着いた状態であったことは生涯少なかったようである。

【モスクワ音楽院辞職】
 アレンスキーはだんだんとモスクワ音楽院の仕事を辞めたいと思うようになっていった。その最大の理由は音楽院の仕事に多大な時間と労力を取られ、作曲活動に専念できないということだが、さらに新しい音楽院院長サフォーノフと折り合いが悪かったこともあった。このサフォーノフという人物は音楽面では間違いなく非凡な実力をもった人物ではあったが、権力を好むワンマンタイプであり、アレンスキーは我慢がならなかったのであった。アレンスキーは1890年代初頭にはすでに親しい人たちに辞職の相談をもちかけていた。しかし、ゴリデンヴェイゼルの回想によれば、辞職の直接の引き金になったのは、オペラ《ラファエロ》のリハーサルのときに音楽院の女子学生と恋仲になってしまい、それに怒った女子学生の兄達が乗り込んできて、スキャンダルになったことだという。スキャンダルの結果、モスクワとモスクワ音楽院に居られなくなってしまい、ペテルブルクに移ったということである。その真偽のほどは不明だが、いずれにしてもアレンスキーはモスクワから出るために奔走し、ペテルブルクの宮廷合唱団楽長の職を当てにし、それがまだ何も決まらないうちにモスクワ音楽院を辞め、1895年1月にそそくさとペテルブルクへと移住したのであった。
 モスクワでの12年間はアレンスキーにとって非常に大きな意味を持つ。タネーエフやチャイコフスキーという偉大な音楽家の影響のもと、モスクワで作曲家としての基本が完成され、スタイルが確立したのである。1882年から1894年の間に書かれた作品にはアレンスキー作品の大部分、そして最良のものが多く含まれている。また、和声学などの参考書もこの時期に書かれ、さらにモスクワの宗務院聖歌学校の監督者会の委員やロシア合唱協会の指揮者としての活躍も目覚ましいものがあった。

【宮廷合唱団楽長就任】
 1895年1月からアレンスキーはペテルブルクに居住するが、宮廷合唱団楽長の件はなかなか決まらず、正式に決まったのは4月ごろである。そのとき音楽の助手としてリャプノフも任命された。
 楽長職は多忙を極めた。朝の9時に出勤し、4時ごろまで仕事。その後また7時ごろ戻ってきて、10時ごろまで仕事。この時期アレンスキーによって書かれたのはもっぱら宗教音楽だけであり、作曲活動が全体的に停滞したのは言うまでもない。事務、経営に関する書類、報告書の作成などに追われ、もともとそういう仕事に向いていなかったアレンスキーにとってそれらはまったく大きな負担であった。
 こうして仕事に忙殺されたアレンスキーは1901年に宮廷合唱団を退くことになる。その後宮廷省の役人に名を連ねるが、その後1901年のうちにそこも退職。年に6000ルーブリという当時としては破格の年金をもらい、働かなくとも生活できるようになったからである。

【晩年】
 宮廷合唱団を辞める前後から晩年期、アレンスキーの作曲活動は急に活気づく。ピアノ曲、合唱曲、ヴァイオリン協奏曲、オペラ《ナルとダマヤンティ》、プーシキンの《バフチサライの泉》への劇付随音楽、シェイクスピアの《テンペスト》への劇付随音楽、バレエ音楽《エジプトの夜》、《ピアノ五重奏曲》、《ピアノ三重奏曲第2番》その他が19世紀末から20世紀初頭にかけて書かれている。また、指揮者やピアニストしての演奏活動もこの時期活発となった。
 1903年の夏に健康状態が急激に悪化。風邪をこじらせて肺炎となり、結核の進行を早めたのだった。気候の悪いペテルブルクからニースへ転地療養に赴くものの、そこではギャンブルにのめりこみ、ただでさえ病気で弱っていた体に鞭打って、朝から晩まで遊び呆けていたという。
 その後いったんロシアに戻り、1904年の夏と秋はクリミアで過ごすが、10月にはまたニースに行く。そこではもうギャンブルに手を出さなかったが、しかし健康状態は悪く、すでに死期が迫っていることを悟ったアレンスキーは取りつかれたように様々な作品を書いていった。
  1905年後半にはアレンスキーの容体はすでに快復の見込みがなくなっていた。当時フィンランド領だったテリオキの近くペルク・ヤルヴィのサナトリウムに移され、そこで最期の時を過ごし、1906年2月12日(新暦25日)、ついに息を引き取る。それから数日後、アレンスキーの遺体はペテルブルクに送られ、アレクサンドル・ネフスキー修道院のチャイコフスキーの墓の近くに埋葬された。

[主要参考文献]
・高橋健一郎『アレンスキー 忘れられた天才作曲家』東洋書店、2011年
・Гольденвейзер, А.Б. Воспоминания. М., 2009
・Покровская, И. Е. Особенности фортепианного стиля А.С. Аренского в контексте взаимодействия композиторского и исполнительского творчества. Диссертация на соискание ученой степени кандидата искусствоведения. СПб., 2007.
・Цыпин, Г. А.С. Аренский. М., 1966